市営バスの運転手をしている芹沢さんは職場の名物人間です。
まず外見からしてただものではありません。
20代後半にしてすでに髪が禿げてしまった芹沢さんは、当初はアデランスのかつらを愛用していました。
ですが、自分に正直に生きようと、ある日アデランスをはずし、ジャンレノのように躊躇のないスキンヘッドにして職場に現れました。
秘密を人前にさらけ出した芹沢さんはすべてがふっきれたといいます。
その後は人生を前向きに生きようとボディビル大会に出場してみたり、モトクロスレースに参加してみたり、市営バスの職場に卓球部を創設してみたりと、40歳の現在まであらゆる趣味にチャレンジしました。
そんな市営バス運転手の芹沢さんはカラオケが大層うまいのです。
プロ級の歌唱力で常にカラオケやスナックでは人気者、本人もひそかに「歌スタ」なぞに応募してみようかともくろんでいます。
芹沢さんはその日もバスを運転していました。
夜の10:28分発、その日のダイヤの最終便です。
「この便で○○市営バスは最終便となりまーす」
カラオケで鍛えた芹沢さんの美声がマイク越しにバス場内に伝わりました。
2駅目の停留所でバスを停めると、若い女性が乗車してきました。
けっこうお酒を飲んでいるようで、座席に座るなり彼女は眼を閉じました。
市営バスは暗い夜道を走り続けます。
最終バスなので、停留所を通過するごとに場内は人が少なくなりました。
市営バスの終点ふたつ前でとうとう乗車客はいなくなりました。
今日一日バスを何往復も運転してきたのです。
しかも停留所あとふたつで今日の勤務は終わりなのです。
芹沢さんは至福感に包まれながら運転座席後ろを振り返りました。
市営バス内に芹沢さんはひとりっきりです。
「そうだ平井健の新曲でも練習してみるか、来週はカラオケの約束もしてるし」
芹沢さんはバスのマイクを使い、思う存分歌い続けました。
たっぷりとビブラートを効かせ、市営バスは芹沢さんのライブ会場へと変貌をとげました。
市営バスは終点に到着しました。
芹沢さんが何のためらいもなくバスのエンジンを切ろうとしたその刹那…
「あの…降ります」
ひとりの若い女性が座席からひょっこりと立ち上がりました。
「うわっ、居たんですか!」
芹沢さんは猛烈な恥ずかしさをどうしたらいいかわかりません。
女性は非常に小柄で、しかも座席奥に座っていたので、芹沢さんの視界には全く入っていなかったのです。
「運転手さんがあまりにも気持ちよく歌っているから、たぶんわたしのこと気づいていないなと思って出て行きそびれてしまいました」
女性は申し訳なさそうに説明しました。
そしてこ芹沢さんにこう言ったのです。
「でも、バスの運転手ではなく、ミュージシャンになれるくらい上手いですね、感動しました」
女性はペコリと頭を下げながらバスを降りていきました。
すさまじい恥ずかしさと同時に、嬉しい余韻が心に広がります。
市営バスの制帽を取って、芹沢さんは照れ隠しにスキンヘッドの頭をポリポリと掻きました。