整骨院の受付窓口と老人の顔

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紀子さんは44歳です。
わたしの主人の弟の奥さん、つまりわたしの義理妹にあたります。

整骨院の受付窓口に紀子さんは勤務しています。
個人病院の穏やかな空気と居心地の良さが幸い?してか、来患のほとんどが老人だそうです。

病気をみてもらう目的よりもむしろ同じ老人の来患仲間に会うことが目的のひとつになっているようで、その整骨院は老人の社交場と化しています。
まさに「後期高齢者医療制度」の有無について語るとき、ひとつの争点となった現象ですね。

老人にとって、受付の紀子さんや看護婦さんも貴重な”話し仲間です”
とても人なつっこく、超スローペースで話しかけてくるそうです、たとえ紀子さんがどんなに忙しくても…。

整骨院に来患する老人のことで、実は紀子さんには秘密の悩みがあります。
「老人ってみんな同じ顔にみえる…」

整骨院では、初診ではない限り当然診察券を窓口に提示します。
てきぱき快活に動く老人ってあまりお目にかかれませんから、診察券をかばんから出すときも超マイーペースです。
「あれえ?ここにいれたはず、ごそごそ」などとやっている間に気づけば窓口は長蛇の列です。
常連さんとわかっていますから「田中さん、もう診察券はいいです、診察室にいってください!」という場合も多々あるそうです。

しかし「老人ってみんな同じ顔にみえる…」「しかもこの人印象が薄いから名前覚えてない…」
このパターンの時には背中に冷たい汗が流れるそうです。

整骨院の窓口に長蛇の列ができているにもかかわらず、紀子さんはその老人の名前を呼べません。
この整骨院に、患者さんとしてもう5回は足を運んでいるのです。
いまさら「名前なんでしたっけ?」なんて言えません。
だってその老人とは来患のたび世間話をしているんです。
しかも、名前が記入された診察券を5回は提示してもらっているのです
人恋しいその老人に、どうして「名前なんでしたっけ?」なんて悪魔の所業ができるでしょうか。

その老人はまだ診察券を探しています。
受付窓口にはさらに長蛇の列が形成されていきます。
整骨院の先生が、怪訝な表情で診察室のほうから紀子さんを覗きはじめました。

その場をごまかすために、紀子さんはパソコン画面を無意味に確認したり、何度も診察ファイルを取り出したりしています。
「あ…ありました診察券」
5分後、その老人患者さんは診察券を発見しました。

紀子さんには5分が一時間にも感じられました。
提示された診察券を凝視しながら、(この人の名前は山本さん、絶対この名前を忘れない…)と紀子さんは心に誓ったのでした。