居酒屋『らいおん』 : MIHARUアラウンド

居酒屋『らいおん』

『ナチュラリスト』の権限はほとんど瀬戸がにぎっている。

天野や西条や美春はブランドのコンセプトに対し、自分たちの立場からただ頑張るだけだ。
各自の意見がバイイングに投影されれば最良なのだが、古参と化石の風通しの悪さがそんな行動を許してくれない。

先月の販促会議の発言で、一瞬瀬戸と気まずい関係になったものの、表面上は何事もなかったかのように振舞っている。
お互いきちんと挨拶もするし仕事の連絡報告も怠らず業務には私情をいれない。
このあたりはやはり瀬戸も知性ある大人の女性だった。
語学もできるし、頭もまわる、腹芸もできる、瀬戸は優秀といえるだろう。
総務や人事部であれば完璧ともいえる。
しかしここはアパレル事業部、ただ…適材適所ではないだけだ。

発言のリスクも厭わず『ナチュラリスト』のために邁進してきた美春だった。
しかしこの会社の軋轢の中で『ナチュラリスト』を成功させるには”ジャンヌダルク”にでもならねば到底無理だろう。
最近美春らしくない諦念が頭をもたげる瞬間がある。
意志が断ち切られそうな瞬間がある。
各店の10月度の売上推移表が、美春の開くパソコン画面の中で影のある数字を落としている。
やはり下降している。
暖冬の影響か、コートなどの重衣料が動かない。
小物などの隙間埋め商品が揃っていれば逃げようもあるのだが、その権限はあくまでも瀬戸の範疇にある。
手を組んで、美春はパソコン画面をじっと見つめた。

チャイムが鳴った。
さあ退社の時間だ、美春はパソコンの電源を落とし、会社のフロアから立ち去った。


「こんばんわー」美春は居酒屋『らいおん』の扉をあけた。
「いらっしゃいませ、あっ、まだ直樹くんは来てないですよ」
美春を見ると『らいおん』のマスターはそう話しかけてきた。

けっこうおいしいと麻生がいっていた居酒屋が『らいおん』だった。
麻生に連れられて美春も最近この『らいおん』を訪れる。
地元の居酒屋らしく常連客のキープボトルが棚にずらりと並んでいて、店の壁には、常連仲間と釣りやキャンプに行った写真がところ狭しと貼り付けられていた。
その写真の中には麻生の姿も見える。
草野球大会で仲間みんなとグローブ片手にポーズを取っている写真だ。
長身の麻生が野球のユニフォームに身を包む姿はなかなか精悍だった。
他にも温泉旅館編やキャンプ編など麻生の姿が写真のところどころに現れる。
それは美春の知らない麻生の一面だった。

壁の写真を眺めていると「こんばんわー」と麻生がいつもの人懐っこい笑顔で店に入ってきた。

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