やっぱり空気が読めない男 : MIHARUアラウンド

やっぱり空気が読めない男

店内のBGMがジャズからピアノに切り替わると、美春は我にかえった。

だてに片桐美春ではない。
販売員時代から持ち前の接客術やトーク術で売上トップを維持してきたのだ。
どんな接客の駆け引きも、感情の駆け引きも乗り越えてきた。
しかもあと少しでアラウンド30。

美春は巧みに自分の気持ちを立て直した。

「ところで福岡への赴任いつから?」
そう質問すると、美春は白ワインを飲んで、チーズを口に放り込んだ。

「赴任は11月30日、勤務は12月2日からなんだ」
美春の質問に健史の目が突如生き生きと輝きはじめた。
そして今後の福岡ライフについての展望をとても嬉しそうに語り始める。
「今回の福岡への人事は栄転といってもいい、やるよーおれは!」
「福岡は都会だけど海も山も近くて、食べ物が超おいしいと聞いてる、言うことないよな!」
「しかも女性が抜群に綺麗だって話だぜ!もう楽しみで楽しみで!」
福岡について話しはじめた健史は美春に口も挟ませぬ勢いだ。

美春は『麒麟屋』の時と同様、唖然として健史を眺めていた。

美春のイメージする本日の”別れ話の筋書き”としては、別れ話がひと段落したあと、ふたりの2年間の交際を振り返りしんみりと語り合う…。
そして出会いから今までをセンチメンタルに回想する。
…はずだったのだが、健史は美春にお構いなくすでに”福岡モード”に全開で突入している。
しかも別れ話の最中に「福岡の女性は抜群に綺麗」という始末だ。
いかに本日が別れ話といえど、他の女性の容姿をほめる、そりゃあないだろう。
健史はやはり空気が読めない男だった。

『麒麟屋』の時は、美春はそんな健史を残し店を飛び出した、しかし今日は違う。

美春はなんだかとても可笑しくなってきた。
あまりにも最後まで健史らしいよ。
らしすぎて怒る気もおきないよ。
健史は最後まで無邪気だ、健史は最後まで健史だ。

…やはりわたしたちは別れて正解だったんだ…。
この1ヵ月の中で美春も成長していた。
健史のこの無邪気さをかわいらしく感じる相性の良い女性がきっとどこかにいるはずだ。

そして、ふと麻生のやさしい笑顔を思い出した。

「健史、福岡はなんといっても食べ物よ!」
気を取り直し、美春は福岡の食べ物について健史に熱く説明した。
「福岡に以前出張に行ったんだけど、屋台ラーメンにもつ鍋が名物でしょー、あとは新鮮なお魚がもう最高!」
「福岡で有名なラーメン屋しってる?おれ転勤したらまずはとんこつラーメンの名店に行きたいんだけど」
美春と健史は時間の許す限り福岡の話に花を咲かせた。

― そこにいるふたりはもう恋人同士ではなく、どこから見ても気さくな友達同士だった ―

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